
昨日は中退した上智大学の恩師であるデーケン先生のことを思い出して、四方山を思いっ切り短くしてみたのです。デーケン先生は年間の論文の最後の指導で、誰もが延々と一時間位の長い話しになるかと思いきや、先生は90秒位ですべての話しを終えてしまったのです。勿論、残りの時間は自由で多くの生徒はその時間を期末論文に当てましたね。自分の母国語ではない言語で講話をすると、どうしても長くなってしまう癖があるますが、こういう意味でドイツ人であるデーケン先生は日本語の実力よりも日本に溶け込んだ人物であることは、私は今でも思い起こす度に自分の未熟さというものを悔やみきれない心境になります。
私は話術で悩んでしまうことが多かったです。特に、日本語の会話では曖昧の度合いがなかなか把握出来ません。ストレット過ぎたら、「お前、これは言い過ぎだろう・・・」と、曖昧過ぎたら、「それでは通じないだろう・・・」と、言われてしまいます。そして、話しがまとまらずに長くなってしまったら、「仕事の報告では話しがくどくて先が見えない・・・」と、そして、日本に来た頃はよく言い訳をしていましたが、その為にも何度もアルバイトが首になったことがあり、困り果てたことも何度かありましたね。
今日では皆様に物事を伝える立場になりましたが、話しが少々長い場合もばたありますし、一つの理論で他派との違いを指摘された時に研究不足のせいで強引さが目立つ時もあります。文書と違って会話は人類の心と心の通い合いであり、互いに相手を尊敬しその心に委ねることが出来なければ、話術と言っても、互いに探り合いと騙し合いしかないです。これが本当の会話の難しさと最近、私は感じ始めていますね。
そもそも、本当の意味で人様に委ねることが出来れば、話術何かは必要がないはずです。