
この「井戸の中の蛙」の沈剛が先般、日本武術太極拳協会全国大会を見学した際に意外に発見したことがすべての種目に於いて音楽伴奏は一切なかったことです。でも、考えてみるとそれもそうかもしれません。皆様が同時に音楽をかけたらばらばらで競技は出来ないです。そして、日々の練習結果を最大限に発揮する為には集中が必要でしょう。私も個人的にはいつも何も聞こえてこない場所を探して個人の太極修練を行っています。しかし、道教太極拳は本来、人々に人生を楽しく過ごすことを進めており、世俗では楽しみが多いのか悩みが多いのかは私が言及しなくてもよいですが、数千年前から世俗の楽しみと煩悩を天秤にかけ、山奥の修道生活を選ばれる方が作った太極拳(これを否定している流派もある)は今日、世界中の人々に色々な形での恩恵をもたらしていることはこの浮き世に様々な誘惑や煩悩を絶たなくても太極拳修練はできることを証明しています。
少し過去を振り返ると太極拳巨匠の皆さんが世の文学が美術、音律にも限りなく愛情を注がれたことは世界に知られています。楊式太極拳三代目伝人の楊澄浦先生は書道の達人で古詩を詠むことや書にすることを毎日のように続けられていました。当派呉鑑泉先生も中国美術が好きで水墨画のコレクターでもありました。かつての中国人太極拳師匠の中では地方劇や民族音楽を鑑賞していた者はほとんどです。近代になると文化の変遷で私達の趣味も変わってきました。例えば、伯父馬海龍はクラシック音楽、師馬江鱗はなんとギターを演奏する程に音楽を楽しんでおります。
このできの悪いわたくしはほとんどの時間を自分の太極修練にでもつい込まなければなにも進歩できないことは確実ですが、しかし、できの悪い人間であればある程集中が悪く、遊びが好きのようです。私は更に字がきたなくて、習字の勉強をしたことがありますが、先生から断られる程に様になりませんでした。そして、書道家の先生の提案ではじめた写真は今日も一応続けております。若い頃は中国人画家の陸儼少先生や書道家の銭君陶先生、来日してから版画家の横尾忠則先生などとも親しい関係を築いてきました。そして、音楽家の父の影響でクラシック音楽鑑賞も続いております。個人的には故作曲家高田三郎や日本オルガンニストの第一人者の酒井多賀志先生をはじめ、多くの声楽家や演奏家との付き合いは今日も続いています。美も音楽も、太極拳も人間にとっては不可欠な栄養剤です。私達の体をリセット効果があることは近年、沢山の科学者や医学者による研究で明らかになっています。
しかし、この私の雑草のような太極拳はあまりにもゆっくり修練するものの為、残念ながら今日まではこれに似合うテンポーの音楽は見つかりませんでした。でも、昨今の一般的な太極拳を拝見したところではわりとテンポーが速いものがあり、それに近いテンポーの音楽をつけると私的には一種の美にも感じるのです。先日、オルガンとお琴と尺八によるコンサートを鑑賞しましたが、どのような違う分野でも合わせることが可能であることがわかりました。太極拳と音楽も当然のように不可能ではありません。
ただし、古代養生術として継承されてきた太極拳は本来、極めての静けさで人間の体内のエネルギーを養っておくことを趣旨としている為、基本的太極拳は沈黙が原則です。勿論、私は表演の時にたまに音楽をつけることは反対しませんし、進んで音楽を選ぶこともあります。でも、自分はなるべく音楽のテンポーに気配り、なるべくゆっくりしたテンポーを選び、自分も太極拳を速めに修練しテンポーに合わせるようにしております。音楽のテンポーに合わない太極拳はまるで合唱団の中で一人だけが違うテンポーで歌っているような感じです。そして、太極拳修練者も違うテンポーの音楽により心のバランスを崩していまうことがあり、注意しましょう。