
武術家は学歴をいらないのか
中国人はすべての分野において努力すれば、エクスパートが生まれると信じてきていますが、そして、中国の改革開放が始まった頃ではあまり勉強が出来ない子達は将来の不安の為に、なんだかの技術を懸命に身につけようと、一時は大工や左官、そして、少々体育細胞が働いている青年でしたら陸上や球技など実に熱が入っていましたね。その中には勿論のように武術も入ります。しかし、武術は卓球に次ぐ位の人気種目である為、多くの親がこのような人気種目では自分の子が一番高いレベルまで上り詰めることを断念していました。
しかし、人気種目であればある程一番頂点まで上り詰められたら、名誉も金銭も自動的に転がってきますね。そして、その万人の頂点の為には何事も惜しまぬは当然のように厳しい練習が避けられないです。勿論、学歴は最初から諦めていましたね。少し古い中国では「字が読めなくても飯は食えるが、人間が理解できないなら飯が食えない」という言い回しがあって、当然、これは人間学が大事とのことを強調していましたが、別の角度からは学歴は糞のようなものだと言っていたことには違いがありません。まあ、中国人なら理解しやすいですね。人々が大変尊敬してきた孔子様も極力に愚民政策を宣伝していました。常識的に考えても通りますが、民があまり賢くなると国の運営が難しくなります。
そして、日本国は孔子様の儒教の影響はかなり受けています。今日の日本社会をじっくり見てみると古い時代の中国に非常に近いことがわかります。でも、日本国国民の皆様のほとんどが義務教育を受けており、中国古代の孔子様が鼓吹していた愚民政策は到底、今日の日本の義務教育がしっかりして行われているには当て嵌まらないはずですが、しかし、国民は政治に無関心で国民の義務である選挙でさえ行われていない方々もいます。話しを聞くとどうも、政治のことは難しくてよく理解できないそうですね。少し前に facebook友人が日本人の教育問題を展開し、日本の学校は考えない人間を育つとの記事を転載されました。実際もこの状態になっているかもしれないですね。思考力と判断力は生まれ付きに備わったのではなく、マニュアールがあっても常に物事を考える習慣が無ければ、頑な分析だけでは政治を変えることはできません。このような政治を扱うなら養生レベルの武術にしても格闘レベルの武術にしても、おそらく、本質的な武術の核心部分に振れることは至難の技だと認識しております。
しかし、中国大地で字も読めない人が言葉で人と交流ができるとの考えは今日も完全に消えてなく、文盲さんがもはや社会で何も不便を感じていない状況が続いていますね。しかし、武術を修練する人間で今日の日本という時点では文盲はもう非現実的な空想になります。そして、義務教育のすべての科目が武術ときっても切れない関係にあります。特に太極拳のような繊細な武術です。色々な厳密なお体の寸法をまるで数学で分析しなければならない程に学歴が大事です。