武の感覚
- 2015/03/08
- 00:39

武という分野では人体を駆使して自分自身を守るか人を倒すか傷つけるかになります。しかし、一つの哲理ですが、人に一発当てたところで物理的な原理で言えば、その反作用で自分自身も同じ位の圧力を受けます。そして、自分自身の体を強くする為には硬気功を修練しますが、硬気功の修練では少しでも間違ってしまうと内臓が怪我をしてしまうことも昔から沢山伺っています。ならば、速度で一瞬にして相手を倒す為なら、電光石火の攻撃か拳と足のパワーと硬さが必要ですが、速度では人間は少しでも年をとると直ぐに落ちるもので、パワーも一定レベルを保つのは大変です。拳と足の硬さを鍛えても人間自身が傷ついてしまうことが多く、武の世界では本当は矛盾だらけですね。そして、とどのつまりに太極拳は「四両抜千斤」で、僅かな力で相手を倒せると言っている方が多いですが、世界のyou tubeを拝見していると太極拳も他の武術とほとんど変わらない戦い方をしています。となると、私達の武の感覚はやはりずれていますでしょうか。
本来なら、太極という武術の感覚は僅かな小さな動きの中で電光石火な駆け引きで勝負に挑むことですが、私はこの感覚をほぼ40年間に渡って修練し続けても中々修得できていないことが事実です。そして、私が自分の師匠が演出してくれたこの感覚を語ると、必ず一部の方がこういう感覚は嘘だと言ってしまいます。理由は色々ありますね。見たことがないとか、動かなければどうやって人を倒すとかになりますね。勿論、自分自身が完全にこのような勁を修得していなければ、本当は自分も語る仕方がないです。でも、人様はどのようにおっしゃるかはどうでもよいでしょう。自分の太極修練や周りの学生の太極修練の方向性さえ間違っていなければ、人様は何をおっしゃるのかはどうでもよいことです。少なくともこの自由世界では自分自身で目標を定めて、まわりの方が太極修練の恩恵に預かっていれば、これですべてよしですね。
武人は武の感覚を常に考えるべきだと個人的に感じています。武の世界で修行をされている方は非常に多いですが、しかし、感覚を分析しより効果的な修行をされている方と言ったらおそらく一握りです。武人は誰でも意地があって、自分ややっていることが間違っていることや完全ではないことは誰も考えたくないのがわかります。私も自分の師匠が教えているものを否定することはなかなかできませんし、武人の誰一人も師匠より教わったものを否定したくないです。しかし、人間は誰一人もまったく同じ身体条件を持っていることは有り得ないことであり、自分が師匠の感覚と完全に一致する目標を立てることも非哲学的な見解になりますね。ならば、隣にいる武人の感覚を謙虚に伺えば、自分自身の感覚のずれも発見しやすいでしょう。自分の学生の中に空手に方がおりますが、修行している方ですので、教える時に感覚が近い為少しは楽をしています。しかし、太極の感覚は修練しかないため、そのご本人も生涯の修行が必要だと痛感しましたね。
ところで、今日の色々な国においては、武を教えることに対しては特に資格が必要ないですね。日本も中国も同じです。まあ、もしも、太極拳を教える時に資格が必要になれば、わたくしはその資格がとれるかどうは少々心配ですね。現在では大きな連盟は指導員の資格を出していますが、これはあくまでもその組織の指導員資格です。私は日本がとてもよい国と感じているのがこういうところです。国は少なくともまだ大連盟の指導員をこのまま国家資格にしようと思っていないようです。少なくとも制定太極拳が日本に上陸したのが1972年のことですが、40年も過ぎていて、今日になって伝統太極拳が以前よりも流行っているようですね。しかし、資格がなくても教えられる為、今日では誰でも太極拳や武道を教えています。今日の武の感覚の多様化は仕方がない話しですが、少なくとも明らかに人にやられてしまう位の武術は取り締まるべきではないでしょうか。
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